こんにちは。やさしい学習塾の加藤です。
先週は、やる気について一般論をお話してまいりました。「そうなんだ~」というお話ではありましたね。私も誰かに「やる気についてお話してください」と言われたら、あのようなお話になります。
やる気論は建前論
しかし、受験生を教えている私としましては、先週のお話は建前論だと思っています。やる気のない子供たちや保護者に対して「なにか解説が欲しいから」「理由が欲しいから」偉い人が理屈をつけたように感じてしまいます。
やる気、勘違いしてない?
皆さんは「やる気があるから、なにかを始める」と勘違いしてないでしょうか? だから保護者の皆さんは「うちの子が勉強しないのは、やる気がないからだ」とおっしゃり、学生の皆さんは「やる気がわかないから、勉強できない」などというのではないでしょうか?
やる気があるから、行動するのではない
私はこれが間違いのもとだと思っています。私たちは「やる気があるから、する」のではなく、「やる必要があるから、する」「やらないと困るようになるから、する」のではないですか?
なにかするのにやる気が必要なのであれば、「やる気がわいたから、朝起きる」のですか? 「やる気がわいたから、食事をする」のですか? 「やる気がわいたから、仕事に行く」のですか? 「やる気がわいたから、トイレに行く」のですか? 朝起きるのも、食事をするのも、仕事に行くのも、トイレに行くのも、やる気が湧くまでしないのでしょうか?
やったから、やる気が湧く
どうでしょう? 行為とやる気には関係がないのではないでしょうか? むしろ私は逆だと思っています。「やる」から「やる気」が湧くんです。「朝起きたから、今日も1日頑張ろう!」「ごはんを食べたから、今日も1日頑張ろう」「仕事に行ったから、仕事頑張ろう」「トイレに…」 どちらが自然でしょうか?(それでも「やる気がないと行動に移せない」という方は、そっとブラウザを閉じてください。そっとですよ)
やる気はやらない理由探しの終着点
ですから「やる気が湧かないから勉強をしない」というのは、「勉強をしない」理由を探しているわけです。「私は勉強したいけれど、やる気が湧かないから勉強できない。誰か私のやる気を湧かせてくれ」と言って、自分以外の所為にしているのです。これを他責思考と言います。これは勉強だけではなく、自分の成長を妨げる一番の強敵です。他責思考が染みつくと、自分が努力しないことを反省するより先に、すべてを他人の所為にしてしまいます。
他責思考から自責思考に
「先生が悪い、学校が悪い」「環境が悪い」「システムが悪い」「世界が悪い」。そう自分以外の物を悪者にして、自分がやるべきことをやらないことから目をそらせているのです。成長する人はいつだって自責思考です。他の人の所為でも、環境の所為でも、社会のせいでも「自分がこうしていたら、もっと良い結果になったかも!」と、分析して学習していますよ。
「じゃあ、どうやったらやれるのさ?」って思いますよね? それは次回にお話ししたいと思いますので、お楽しみに。子供たちが自分の力を信じて、やる気を持って学んでいけるよう、一緒に考えていきましょう!
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