前回は、「理解の層が抜けると、すべてが崩れる」というお話をしました。
今回はもう少し視野を広げて、“個人の問題ではなく、社会の構造”としてこの現象を見てみたいと思います。
「学歴社会は終わった」と言われるようになって久しいですね。
確かに、東大や京大を出たからといって人生が保証される時代ではありません。
学歴よりも、個性や創造性が評価される――そんな空気が、社会のあちこちに広がっています。
けれど、私が長年生徒たちを見てきて感じるのは、
“学歴社会”が終わっても、“理解力社会”はむしろ強まっているという現実です。
社会の上位層にいる人たちは、どんな分野でも例外なく、
「読み解く力」と「考え抜く力」に優れています。
たとえ学歴がなくても、理解力の高い人は、仕事の中で必ず頭角を現します。
理解力とは、知識を増やすことではなく、“意味を結びつける力”です。
一を聞いて十を理解できる人は、学びのスピードも成果も圧倒的に速い。
一方で、わからないことを放置してきた人は、
目の前の出来事を点としてしか捉えられず、線にも、ましてや面にも広げられません。
この違いが、社会における「理解力格差」を生み出しています。
企業の採用担当の方と話をすると、
「大学名よりも“説明の筋が通るかどうか”を見ている」とよく聞きます。
つまり、答えを知っているかよりも、“どう考えるか”が問われているのです。
それは高校や大学の勉強とは別のように見えますが、実は根は同じです。
論理的に考える力、筋道を立てて理解する力は、
小中学校の段階で“積み上げの学習”をしてきたかどうかで決まってしまう。
大人になってから鍛えようとしても、なかなか追いつけません。
最近では、“推薦”で分不相応な大学に進学し、ついていけずに退学する学生が増えています。
高校までは丁寧に支えてもらえたけれど、大学では「自分で理解する」ことが求められる。
レポートを読んでも要点がつかめず、教授の言葉をそのまま写すだけ。
やがて課題を出せなくなり、単位が取れず、居場所を失ってしまう――そんな相談が年々増えています。
それは、その子が“勉強をさぼったから”ではありません。
ただ、「理解する力」を育てる時間をもたないまま、
“結果”としての進学を優先してしまっただけなのです。
多くの高校では、「現役合格」という言葉が輝かしく掲げられます。
しかし、それが必ずしも“幸せな進学”を意味するとは限りません。
本人が本当は行きたかった学科を諦め、
安全圏の大学・推薦枠で“合格という名の安心”を手にしてしまう。
けれど、その“安心”は、やがて“退屈”や“挫折”という別の形で返ってくることがあります。
私は、こうした相談を受けるたびに思うのです。
「もし中学生のときに、もう少しだけ“理解の底”を固めておけたら」――と。
高校や大学の進学先だけでなく、その先の人生の選択肢まで変わっていたかもしれません。
社会は確かに、学歴よりも“自分で考えられる人”を求めています。
けれどその「考える力」は、わからなくなってからでは育ちにくいのです。
理解力は、一夜漬けでは身につきません。
早くから「なぜ?」と考える習慣を積み重ねることでしか、鍛えられない。
ですから、塾に通う目的も、“受験のため”ではなく、
理解のためのトレーニングとして考えてほしいのです。
それは、進学のための保険ではなく、社会を生き抜くための“思考の基礎体力”を育てること。
学歴の価値が薄れてきた時代だからこそ、
「理解する力」そのものが、人生の安定を決める時代になっています。
そして、その力は“わからなくなった後”では育ちにくい。
理解力格差は、学歴格差よりも深く、長く、静かに人を分けていきます。
次回は、この“理解力”を育てるうえで、
塾という場所が本来どんな役割を果たすべきなのか――
「塾とは何のためにあるのか」という問いを、少し掘り下げてお話しします。
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