前回は、「うちの子は大丈夫」と思っていたご家庭ほど、
気づいたときには学びの土台が崩れかけている――そんなお話をしました。
今回はもう少し踏み込んで、
なぜ一度つまずくと、取り戻すのがこれほど難しいのかという“構造”の話をしてみたいと思います。
私たちはつい、勉強を「時間で積み上げるもの」だと考えがちです。
1時間、2時間、3時間……机に向かえば、その分だけ積み上がる。
けれど、実際の学びはそうではありません。
学力は時間ではなく、理解の層で積み上がるものです。
たとえば、小学校の算数で「分数」がよくわからないまま進むと、
中学校の「比例・反比例」や「一次方程式」も理解しづらくなります。
英語なら、be動詞の感覚を曖昧にしたまま「進行形」や「受動態」を学ぶと、
どんなに例文を暗記しても応用がきかない。
――つまり、“わからない”は単元の終わりではなく、理解の空洞の始まりなのです。
そしてその空洞は、放っておくと“理解の層全体”を下から崩していきます。
ある日突然、テストの点数が落ちたように見えても、
実はその何か月も前、何年も前から、地中で静かに崩落が進んでいたのです。
この「ゆっくりと沈む構造の怖さ」を、保護者の方はあまり目にしません。
目に見えるのは“成績の結果”だけだからです。
塾では、こうした“空洞の補修工事”を何度もやってきました。
表面上のミスは直せても、理解の層そのものが抜けている場合、
そこを補うには数倍の時間と精神的エネルギーが必要になります。
遅れを取り戻すというより、
「一度崩れた基礎を、別の足場を組んで立て直す」ような作業に近いのです。
本人も最初はがんばります。
でも、勉強をしても点が上がらない。
努力しても報われない。
そう感じ始めると、
「自分は頭が悪いのではないか」と思い込むようになります。
本当は頭の良し悪しではなく、理解の層が壊れているだけなのに――。
この誤解が、子どもたちの心を静かに蝕みます。
一度「自分はできない」と信じてしまうと、
それを覆すのにまた時間がかかる。
学びに向かう意欲は、理解が積み上がるときにこそ芽生えるのです。
つまり、学力の問題は、やがて自己肯定感の問題に変わるのです。
私は、何百人という生徒を見てきて、
「わからない」が「嫌い」に変わる瞬間を何度も見てきました。
そして、「嫌い」になってしまうと、その科目はもう触れなくなります。
問題を見るだけで心が拒否する。
そうなる前に、誰かがそっと支えてあげる必要があるのです。
学校の先生は、一人の子の“抜けた層”まで戻る時間がありません。
だからこそ、家庭が早めに「おかしいな」と感じることが何より大切です。
テストの点が落ちたとか、宿題を忘れたという表面的なことではなく、
「説明を聞いてもピンと来ていない」――その小さな違和感こそ、
最初のサインなのです。
「まだ様子を見ようか」と思うお気持ちはよくわかります。
けれど、“学びの遅れ”は、時間では解決しません。
崩れた層を修復するには、誰かが手を添える瞬間が必要です。
塾の役割は、まさにそこにあります。
勉強を先に進める場所ではなく、理解を下から支える場所。
それができるうちに行動できれば、
子どもの心が折れる前に、再び積み上げが始められるのです。
次回は、この「崩れた層」を放置したまま進むと、
どんな現実が待っているのか――
大学受験の現場から“推薦合格”、“現役合格”という言葉の裏側にある、もうひとつの現実をお話しします。
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