前回は、「つまずいてからでは遅い」という話をしました。
勉強は持久走のようなもので、早く走り出した方が余裕をもって景色を見られる――
けれど一方で、すでにその持久走を順調に走っている子どもたちもいます。
今回は、その“順調な今”をどう支えるかというお話です。
「うちの子は、学校の授業についていけているみたいなんです。
だから、まだ塾はいいかなと思って。」
保護者の方から、こうした言葉をいただくことがよくあります。
私はそのとき、すぐに否定することはありません。
むしろ「それはとても良いことです」と伝えます。
なぜなら、“学校の授業についていけている”というのは、
お子さんの学びが健やかに機能している証だからです。
授業で先生の言葉を理解し、課題をこなし、
テストでその理解を自分の言葉に変えて答えられている。
それは単に「できている」ではなく、
生活リズム・集中力・基礎力――
すべてがきれいに噛み合っている状態です。
この状態にある子どもを、無理に塾へ通わせる必要はありません。
「塾に行かせていない=遅れている」という短絡的な発想は、
教育においてもっとも危うい誤解の一つです。
むしろ自然に理解が循環しているうちは、
その流れを壊さないことこそが“上手な見守り”なのです。
ただし、ひとつだけ大切な視点があります。
“授業についていけている”というのは、能力ではなく状態です。
つまり、永続的に保証された力ではなく、
授業のスピード・先生の教え方・周囲の学習環境――
それらが偶然かみ合っていることで成り立っているのです。
たとえば、先生の交代。
授業の難易度の上昇。
友人関係の変化や、部活動の疲労。
たったひとつの要素が変わるだけで、
“分かっていたはずのこと”が急に分からなくなることがあります。
親の目には「いつも通り」に見えても、
子どもの内側では、理解の歯車が少しずつ噛み合わなくなっている。
この小さなズレこそが、
やがて「授業についていけない」という感覚の始まりなのです。
授業についていけている、というのは、
本人の努力の賜物であると同時に、
家庭・学校・本人――三つのリズムが同調している奇跡的な状態です。
だからこそ、保護者に求められるのは焦りではなく、観察です。
「前はできていたのに、なぜか今回は点が伸びない」
「授業の内容を話したがらなくなった」
そんな小さなサインを見逃さないこと。
それが、もっとも確実な学びの予防線になります。
塾という場所は、そうした“わずかなズレ”を整える場所です。
ですから、「授業についていけているうちは行かなくていい」。
けれど、「少しついていけないかもしれない」と感じたら、
ためらわず相談してほしいのです。
塾に行くというのは、
“落ちこぼれたから助けてもらう”ことではありません。
“ペースが乱れそうなときにリズムを整える”こと。
言うなれば、転んでから絆創膏を貼るのではなく、
転ばないように靴紐を結び直すようなものです。
そして、一度その“靴紐の結び方”を身につければ、
次からは自分で結べるようになります。
その力こそが、塾の本当の目的――
「塾を必要としなくなる力」なのです。
もし今、お子さんが学校の授業にしっかりついていけているなら、
どうかそのことを、まっすぐに喜んでください。
そして同時に、その状態がどう保たれているのかを見つめてください。
勉強は、何かを“足すこと”よりも、
“今うまくいっている仕組みを理解して支えること”の方がずっと大切です。
塾は、その「次の手」を用意しておく場所です。
まだ行かなくてもいい。けれど、必要になったときにすぐ動けるように――。
それだけで、学びの世界は驚くほど穏やかで、強くなります。
次回は、その「授業についていけている状態」がどのように保たれているのか、
その“見えない仕組み”を少し詳しく探っていきます。
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