前回は、「わからないまま進むと、時間は“距離”になる」という話をしました。
今回お伝えしたいのは、その距離の広がりが“どんな感覚なのか”ということです。
それをいちばんよく説明してくれるのが――「持久走」という比喩です。
誰しも一度は、学校の体育で持久走を経験したことがあるでしょう。
あの、冷たい空気の中を何周も走らされるあの授業です。
最初のスタートでは、みんなほぼ同じ位置に並んでいます。
けれど、数分もすれば差がつき始め、
気づけば先頭の背中はどんどん遠くなっていきます。
そのとき、後ろにいる子はどう感じているでしょうか。
「走っているのに、追いつかない。」
「むしろ、走るほど差が広がっている気がする。」
そう感じた経験、誰にでも一度はあるはずです。
勉強もまったく同じ構造です。
遅れを取り戻そうとがんばる子ほど、
「こんなに頑張っているのに、追いつけない」と感じる瞬間がある。
努力の方向は正しいのに、報われない。
その苦しさが、やがて“勉強が嫌いになる引き金”になるのです。
ここで大切なのは、「差」そのものではなく、“前が進み続けている”という事実です。
勉強の世界では、先頭は止まりません。
授業は毎日進み、テスト範囲は増え続ける。
つまり、後ろからどれだけ速く走っても、前の子はその間にさらに前へ進んでいるのです。
これは「やる気の問題」ではなく、「構造の問題」です。
しかも、この持久走は平らなグラウンドではない。
途中には坂道があり、砂利道があり、ときには水たまりもあります。
数学や英語といった積み上げ型の科目は、まさにこの“坂道区間”にあたります。
体力(集中力)があるうちはなんとか登れるけれど、
途中で立ち止まると、再び走り出すには大きなエネルギーが必要になる。
そして、そのエネルギーを子どもが一人で出し続けるのは、ほとんど不可能なのです。
最初のうちは、先生が伴走してくれます。
「ここでペースを上げよう」「少し肩の力を抜こう」と声をかけてくれる。
でも、その時間は永遠には続きません。
先生は授業の流れとともに先に進み、
やがて、伴走してくれる人がいなくなります。
そのときに残るのは、“自分の足で走るしかない現実”です。
そして、その現実に耐えるには、走り方を体で覚えておく必要があります。
勉強でいえば、先生の説明を聞きながら「自分の言葉で整理する力」。
これが備わっていれば、たとえ一時的に遅れても立て直せます。
けれど、それを持たないままでは、
授業が進むたびに「知らない景色」が増えていくばかりです。
私の塾に来る子どもたちの中には、
「学校の授業がもう追いつけない」と感じている子がたくさんいます。
その子たちは本当に頑張っています。
夜遅くまで問題集を開き、必死にノートを書き写し、
それでも「前が見えない」と苦しんでいる。
それは怠けではなく、単純に構造的に追いつけない位置まで離れてしまっているだけなのです。
持久走で途中から追い上げるには、
前の人より速いペースで走り続ける必要があります。
でも、それを長く続けるのはどんなに強い子でも難しい。
だから、勉強でも「追いつく努力」ではなく、
「遅れない準備」がいちばん大切なのです。
“つまずいてから”では、遅い。
それは、能力の問題ではありません。
勉強という持久走のルールを、少し早く知っていたかどうか。
それだけの違いです。
次回は、この持久走の中で、
先生という“伴走者”が果たしている本当の役割についてお話しします。
授業のその1時間に“いない”ということが、
どれほど大きな意味を持つのか――それを一緒に見ていきましょう。
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