大分県日田市のやさしい学習塾『いる・かんぴえっろ』

     大分県日田市のやさしい学習塾【イル・カンピエッロ】

電話予約
友だち追加
クラス案内
アクセス
ブログ

第1回④/伴走してくれる先生の授業に“いない”ということ

前回は、勉強を“持久走”にたとえて、
「追いつこうとしても、前はもっと先へ進んでいく」というお話をしました。
今回は、その持久走で唯一、誰かが隣を走ってくれる時間――
つまり“授業”の価値について考えてみましょう。


子どもたちにとって、授業とはただの時間ではありません。
先生が伴走しながら、ペースを整えてくれる貴重な区間です。
その1時間は、知識を教わるだけの時間ではなく、
理解の方向を修正してもらえる瞬間でもあります。

「ここでつまずきやすい」「ここは飛ばしていい」「この考え方を使うと楽になる」
そうした“勉強の考え方”を、先生は目の前で見せてくれています。
それを一緒に体験できる時間は、思っているよりずっと短い。

けれど、その一時間を“参加しない”まま過ごすと、どうなるでしょうか。
たった一回、たった一時間でも、
それは単なる「出席していない」という意味ではなく、
その単元の“走り方”を知らないまま走り続けるということになります。


私たちが勉強を教える立場で感じるのは、
「わからない」と言っている子どもたちの多くが、
実は“授業にいなかった”か、“心がそこになかった”という共通点を持っていることです。
身体は教室にいても、心が授業に参加していなければ、
理解の流れからは置いていかれます。

たとえば、黒板を写すことに集中しすぎて、
先生の声を聞き逃してしまう。
ノートは綺麗なのに、内容が頭に入っていない。
それもまた、「授業に参加していなかった」ということなのです。


そして、その“いなかった一時間”を取り戻すのは想像以上に大変です。
なぜなら、授業というものは、一方通行ではなく流れの中で成立しているからです。
ひとつ前の説明があって、次の話が理解できる。
ひとつの疑問があって、次の発見がある。
その流れの途中を切り取っても、意味は繋がりません。

私はよく、「授業を一回逃すと、三回分の復習が必要になる」と言います。
その一時間の中に含まれている“前提”や“伏線”を、
あとから自分で拾い集めるのには、それだけの時間がかかるからです。

そして、その間に本人の“自信”が失われる。
「なんで自分だけわからないんだろう」「やっても追いつけない」――
そう感じるようになった瞬間、
子どもは勉強そのものよりも“置いていかれる不安”に心を奪われてしまうのです。


授業とは、単なる知識を伝える場ではありません。
先生が「ここが大事だよ」と声をかけ、
友だちが「そういうことか」と顔を上げる。
その一連の空気を、子どもは肌で感じながら、
“理解するという営み”を体験しているのです。
その空気の中に“参加していない”ということは、
勉強の内容だけでなく、学びそのものの“体験”を失うということでもあります。


塾で私たちが行うのは、
その「失われた体験」を取り戻す仕事です。
ノートを開き、説明を繰り返し、
もう一度、学びの空気を感じてもらう。
でも、それは本来――失う前に守るほうがずっと易しいのです。

授業に「いる」ことは、
ただ席に座って「いる」という意味ではありません。
その時間の中で、“理解の呼吸”を感じているかどうか。
たったそれだけの違いが、のちに何倍もの差になる。
それが、勉強という時間の厳しさであり、
そして、学びの世界の静かな真実なのです。


次回は、このシリーズ第1回の締めくくりとして――
「早く始めることは焦りではなく、予防である」
というテーマで、“親の行動のタイミング”についてお話しします。

コメント

この記事へのコメントはありません。

関連記事

PAGE TOP