前回は、「まだ早い」と思っているうちに、
子どもの学びの波を逃してしまうことがある――というお話をしました。
今回はその続きとして、
“遅れ”とはいったい何なのか。
なぜ時間の問題ではなく、距離の問題なのかを考えてみたいと思います。
勉強の遅れは、よく「1か月分」「1学期分」などと時間で語られます。
しかし、実際の学びの世界では、遅れは“時間”ではなく“距離”として広がっていきます。
「遅れた“時間”と同じだけ時間を掛ければ追いつくだろう」と思っている親御さんが多いですが、
おそらく同じ時間を費やすだけでは追いつかなくなります。
授業は毎日、前回の内容を前提に進みます。
つまり、ひとつ理解が抜けると、その上に積み上がる知識が支えを失う。
「分数」が曖昧なまま「分数の計算」に入り、
「分数の計算」が曖昧なまま「割合」に進む――
こうして、理解の層が一段ずつずれていくのです。
最初は小さな段差です。
でも、その段差を踏み越えようとするたびに、
次第に“距離”が広がっていきます。
そしてある日、子どもはこう言います。
「急に分からなくなった」
けれど、実際には“急に”ではありません。
わからなくなったのはその日ではなく、
数か月前、あるいは数年前の「小さな見落とし」から始まっていたのです。
勉強というのは、一度止まると“止まっていた分だけ”の時間では追いつけません。
授業を受けても理解が積み上がる速度が遅くなるため、
追いつこうとすればするほど、前との差は広がっていく。
それは、マラソンで出遅れたランナーが、
前を必死に追いかけても、その間に先頭がさらに進んでいくのと同じです。
時間の流れは公平ですが、理解の進み方は公平ではありません。
理解が積み上がっている子は、次の内容を“新しい発見”として吸収できる。
一方で、前の内容が曖昧な子は、
新しい単元を“謎解き”のように手探りで追いかけるしかない。
その差は、ただの1単元ではなく、「何十回分の授業」に匹敵するかもしれません。
そして、その分だけ“次の理解”が遠のいていくのです。
そしてこの距離は、放っておけばどんどん広がります。
なぜなら、授業は立ち止まらないからです。
理解していようがいまいが、次の単元は予定通りに進む。
つまり、「学びの列車」は止まらずに走り続けているのです。
この列車に乗り遅れた子どもは、
次の駅まで“自分で走って追いつく”しかありません。
ところが、追いついたころには列車はもうさらに先へ――。
それが、勉強における「遅れが遅れを呼ぶ」構造です。
「いや、うちの子は理解が早いから大丈夫」という方もいます。
けれど、理解が早い子ほど、実は“リスクが見えにくい”のです。
スピードがあるため、少しくらい分からなくても感覚でごまかせる。
テストでは点が取れる。
けれど、基礎の層が抜けたまま上へ進むと、
高校生になって突然、「説明の意味が分からない」という壁にぶつかります。
そのとき初めて、過去の空白が形をもって現れるのです。
ここまで読んでくださった方の中には、
「じゃあ、どの時点で危険なの?」と思われた方もいるでしょう。
それは、点数の変化よりも“理解の反応”で判断できます。
授業中に「ふーん」「なんとなくわかった」と言っているとき――
それは、すでに危険信号の入り口です。
「わかったような気がする」が積み重なると、
やがて“わからないまま進む”状態が定着してしまうのです。
学びの遅れは、時間で計るものではありません。
学びの遅れは、“積み上げた知識の層”のズレであり、
“理解という坂道”の途中で転んでしまった状態です。
そして、その坂を登り直すには、倍以上の努力が必要になります。
だからこそ、「少しでも怪しい」と感じた瞬間に手を打つこと。
それが、子どもの未来にとって、
いちばん負担の少ないやり方なのです。
次回は、この“距離”をさらに具体的に感じてもらうために、
勉強を“持久走”として捉えたお話をしてみましょう。
なぜ追いつこうとしても追いつけないのか――
その構造を、走る姿になぞらえて見ていきます。
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