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第1回②/わからないまま進むと、時間は“距離”になる

前回は、「まだ早い」と思っているうちに、
子どもの学びの波を逃してしまうことがある――というお話をしました。
今回はその続きとして、
“遅れ”とはいったい何なのか。
なぜ時間の問題ではなく、距離の問題なのかを考えてみたいと思います。


勉強の遅れは、よく「1か月分」「1学期分」などと時間で語られます。
しかし、実際の学びの世界では、遅れは“時間”ではなく“距離”として広がっていきます。
「遅れた“時間”と同じだけ時間を掛ければ追いつくだろう」と思っている親御さんが多いですが、
おそらく同じ時間を費やすだけでは追いつかなくなります。

授業は毎日、前回の内容を前提に進みます。
つまり、ひとつ理解が抜けると、その上に積み上がる知識が支えを失う。
「分数」が曖昧なまま「分数の計算」に入り、
「分数の計算」が曖昧なまま「割合」に進む――
こうして、理解の層が一段ずつずれていくのです。

最初は小さな段差です。
でも、その段差を踏み越えようとするたびに、
次第に“距離”が広がっていきます。
そしてある日、子どもはこう言います。
「急に分からなくなった」

けれど、実際には“急に”ではありません。
わからなくなったのはその日ではなく、
数か月前、あるいは数年前の「小さな見落とし」から始まっていたのです。


勉強というのは、一度止まると“止まっていた分だけ”の時間では追いつけません。
授業を受けても理解が積み上がる速度が遅くなるため、
追いつこうとすればするほど、前との差は広がっていく。
それは、マラソンで出遅れたランナーが、
前を必死に追いかけても、その間に先頭がさらに進んでいくのと同じです。

時間の流れは公平ですが、理解の進み方は公平ではありません。
理解が積み上がっている子は、次の内容を“新しい発見”として吸収できる。
一方で、前の内容が曖昧な子は、
新しい単元を“謎解き”のように手探りで追いかけるしかない。
その差は、ただの1単元ではなく、「何十回分の授業」に匹敵するかもしれません。
そして、その分だけ“次の理解”が遠のいていくのです。


そしてこの距離は、放っておけばどんどん広がります。
なぜなら、授業は立ち止まらないからです。
理解していようがいまいが、次の単元は予定通りに進む。
つまり、「学びの列車」は止まらずに走り続けているのです。

この列車に乗り遅れた子どもは、
次の駅まで“自分で走って追いつく”しかありません。
ところが、追いついたころには列車はもうさらに先へ――。
それが、勉強における「遅れが遅れを呼ぶ」構造です。


「いや、うちの子は理解が早いから大丈夫」という方もいます。
けれど、理解が早い子ほど、実は“リスクが見えにくい”のです。
スピードがあるため、少しくらい分からなくても感覚でごまかせる。
テストでは点が取れる。
けれど、基礎の層が抜けたまま上へ進むと、
高校生になって突然、「説明の意味が分からない」という壁にぶつかります。
そのとき初めて、過去の空白が形をもって現れるのです。


ここまで読んでくださった方の中には、
「じゃあ、どの時点で危険なの?」と思われた方もいるでしょう。
それは、点数の変化よりも“理解の反応”で判断できます。
授業中に「ふーん」「なんとなくわかった」と言っているとき――
それは、すでに危険信号の入り口です。
「わかったような気がする」が積み重なると、
やがて“わからないまま進む”状態が定着してしまうのです。


学びの遅れは、時間で計るものではありません。
学びの遅れは、“積み上げた知識の層”のズレであり、
“理解という坂道”の途中で転んでしまった状態です。
そして、その坂を登り直すには、倍以上の努力が必要になります。
だからこそ、「少しでも怪しい」と感じた瞬間に手を打つこと。
それが、子どもの未来にとって、
いちばん負担の少ないやり方なのです。


次回は、この“距離”をさらに具体的に感じてもらうために、
勉強を“持久走”として捉えたお話をしてみましょう。
なぜ追いつこうとしても追いつけないのか――
その構造を、走る姿になぞらえて見ていきます。

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