小学校の内容があやふやなまま高校受験を迎える中学生。
中学校の範囲がわからないまま、進学校の授業についていけなくなった高校生。
やさしい学習塾にも、毎年のようにこうした生徒が訪れます。
いずれも、最初は「うちの子は真面目なんです」「もう少し様子を見ようと思っていました」と言われます。
その言葉に、私はいつも痛みと共感の両方を感じます。
子どもたちは、怠けていたわけではありません。
むしろ、多くの子は誰よりも努力してきました。
ただ、その努力が“正しい場所”に届かなかったのです。
わからないまま授業が進み、本人も「どうにかなるだろう」と思っているうちに、
気づけば、教室で先生の説明が“遠くの出来事”のように聞こえるようになります。
この段階で、焦りを見せる子もいれば、まるで心を守るように諦めてしまう子もいます。
保護者の方が気づいたときには、すでに“わからない範囲”が広がり、
何から手をつければいいのか分からなくなっていることが多いのです。
それは、家庭のせいでも学校のせいでもありません。
ただ、「支援のタイミング」が少し遅かっただけなのです。
子どもの学びは、生き物のように変化します。
理解の芽が出たときに少し手を添えれば、驚くほど伸びていきます。
しかし、芽が出る前に土が固くなってしまうと、
どんなに水を注いでも吸収されにくくなってしまうのです。
それが「勉強が分からなくなった子」が、長い時間をかけても成果を感じにくくなる理由です。
塾の門を叩く子どもたちは、みな勇気を振り絞ってやってきます。
けれど、本来ならその勇気を“遅れを取り戻すため”ではなく、
“未来を広げるため”に使ってほしい。
そう願わずにはいられません。
親御さんの「うちの子はまだ大丈夫」という思いは、愛情の証です。
けれど、学びの世界では、その“優しさ”がときに子どもを苦しめることがあります。
「まだ早い」と思っているうちに、授業はどんどん進み、
理解の層が少しずつ離れていく。
そして、子ども自身も気づかないうちに、勉強という坂道を下り始めているのです。
私は、そうなる前に立ち止まってほしいと願っています。
「勉強ができない子」を作るのではなく、
「助けを呼ぶタイミングを知っている子」に育ててあげてほしいのです。
それが、子どもの将来を守る最初の一歩だからです。
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