前回は、「備える親は、子の自由を守る親」という話をしました。
では、具体的に“いつ”その備えを始めるべきなのか――
今回は、その一歩目のタイミングについてお話しします。
子どもに塾を勧めようとするとき、
多くの保護者の方が口をそろえて言う言葉があります。
「うちの子は、まだ早いと思うんです」
「もう少し様子を見てからでもいいですよね」
その気持ちは、痛いほどよくわかります。
焦らせたくない。
周りの子が通っているからといって、流されるように始めたくもない。
子どもの成長を信じたい――。
それは、親としての自然な優しさであり、信頼の形です。
しかし、勉強というのは“様子を見ている間に”静かに差が広がるものです。
この「差」は、努力不足ではなくタイミングの問題です。
子どもの理解力には、伸びやすい時期があり、
その波を逃してしまうと、次に同じ調子で掴み直すことは難しくなります。
たとえば、小学校低学年の「九九」を思い出してみてください。
あの時期に自然に覚えた子は、特別な才能があったわけではありません。
繰り返し声に出し、手で書き、耳で聞いて、
その瞬間に“体で覚える”タイミングが訪れていたのです。
それが中学・高校で学ぶ数学の基礎になります。
一方で、そのタイミングを逃してしまうと、
九九だけでなく「数の感覚」そのものを掴み直す必要が出てきます。
知識として覚えるのではなく、感覚として根づかせることができなくなる。
それが“まだ早い”と思っているうちに起きる、小さなズレの始まりなのです。
多くの親御さんが、「まだ小学生だから大丈夫」と考えます。
でも、勉強の遅れは“年齢”ではなく“積み重ね”で生まれます。
そして、その積み重ねは“時間”ではなく“理解”の上に成り立っています。
授業の中で先生が言ったことを、その場で理解できる子は、
次の授業でもその理解を土台にできる。
けれど、前回の内容が曖昧なまま進むと、
次の授業は「知らない言葉を聞きながら、その意味を推測する時間」に変わります。
つまり、勉強時間そのものが“理解のための時間”ではなく、
“想像で埋める時間”になってしまうのです。
「子どもの力を信じたい」という気持ちは、とても尊いものです。
けれど、信じることと、任せきることは違います。
信じるとは、“支える”ということ。
そして、支えるとは、“先に準備しておく”ということです。
「まだ早い」と思ううちは、実は“最も始めやすい時期”です。
心にも体にも余裕があり、学ぶことを苦痛ではなく“新しい冒険”として受け止められる。
この段階で小さく行動を起こせば、
勉強は「追いかけるもの」ではなく「並走できるもの」に変わります。
逆に、「もう少し様子を見よう」と思っている間に、
授業は静かに進み続けます。
学校は、個々のペースでは待ってくれません。
“わからないまま進む”という状態は、
子どもが思っている以上に、長い影を落とします。
私がこの仕事をしていて、いつも感じることがあります。
「遅れてから始める努力」は、美しいけれど、あまりに苦しい。
追いつくために何倍もの時間とエネルギーがかかり、
その途中で「もう無理」と心が折れてしまう子を何人も見てきました。
だからこそ、“つまずいてから”では遅いのです。
次回は、なぜ“遅れ”がそんなに重たくなるのか――
時間ではなく、「距離」で広がる学びの構造についてお話しします。
コメント